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岡崎の名前

大変興味があります。
岡崎のまじめな話。実は知らないことばっかりでした。


1452年頃、三河守護代の西郷頼嗣が北方に対する防御として築城した。1531年に松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす。(守山崩れ) 跡を継いだ松平広忠は三河と松平一族を統御できず、東の今川、西の織田に挟まれて苦しみ、今川家に臣従し、子の竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出した。1549年、松平広忠が家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は今川家の属城として城代が置かれた。1560年、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると家康は岡崎城を取り戻し今川家から独立する。その後、織田信長と同盟を結び三河を平定する。 1570年、家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入った。しかし、信康は謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めた。1590年、家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉政が入る。吉政は城を拡張し、石垣や城壁などを用いた近世城郭にふさわしいものに整備した。また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備され現在の岡崎城の原型を造った。 1600年の関ヶ原の戦い後は、徳川譜代の本多康重が五万石で入城。徳川幕府の時代中は神君家康公誕生の城として重要視し、譜代大名の名門が城主を務めている。


歴史・沿革
1452年または1455年に、龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。西郷信貞(松平昌安)から奪い取った松平清康によって、龍頭山の砦が改修拡張整備され、岡崎城とした。三河国名所図会には、岡崎は享禄(1528-1531)以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、と記載されている。

1524年 松平清康が入城
1542年 城内で徳川家康が生まれる


岡崎城は、当初は、岡竒城と記された。また、三河国名所図会には、岡崎は享禄(1528-1531)以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、と記載されている。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月21日 19:59に投稿されたエントリーのページです。

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